カルマンギアの歴史
- フォルクスワーゲン社のスペシャリティパーソナルクーペであるカルマンギア。誕生から50年を経過したが現在でも世界中にファンが存在する。
そんなカルマンギアの誕生の歴史を紐解いてみたい。
カルマンギアのネーミング

■カルマンギア(Karmann Ghia)…VW社では「Type14」と呼ばれ、1955年にタイプ1(ビートル)をベースに作られた2+2のスポーツクーペである。イタリアのGhia社がデザインをしてドイツのKarmann社がボディのコーチワークをした車だからこそ「Karmann
Ghia カルマンギア」という車名になった。
写真はプロトタイプ
VW車のフラッグシップモデルがカルマンギア

■のちにタイプ3をベースとしたカルマンギア(Type34)も発売されるが、一般的には上記のクルマがカルマンギアと呼ばれている。
カルマンギアの誕生は1953年に遡る。当時VW社ではType1のビートルとType2を主力車種としていたが、メーカーのフラッグシップモデルとしてのイメージリーダーカーを模索をしていました。
写真はタイプ3カルマンギア
ヘブミューラーの後継車種がカルマンギア

■VW社は1948年からビートルの上級車種としてパーソナル高級車であるビートルのオープン2シーターモデル(ヘブミューラー社製)を販売していたが1949年にヘブ社の工場が火事になり、引き続きカルマン社によって1953年まで生産が引き続けれました。その高級パーソナルビートルこそが「Type14」である。つまりカルマンギアはヘブミューラー社製高級パーソナルビートルの実質的な後継車ということになります。
写真はヘブミューラー
歴史は1953年の遡る

■しかし、ボディデザインは全く異なり、当時海外メーカーとの取引がクライスラー社しかなかったイタリアのカロッツェリア「Ghia」社に1953年にデザインをお願いしたことに始まる。カルマンギアは当時クライスラーのクーペをデザインしていた「エレガンス」というクルマがモデルとなった。
写真はクライスラーエレガンス
■1955年8月にほぼプロトタイプと同じシルエットで登場したカルマンギアはビートルのエクスポートモデルと同じパワーユニットとシャーシを使っていた。最初は左ハンドルのクーペモデルしかなかった。ワイド&ロースタイルのカルマンギアは車重がビートルの730kg(カブリオレは800kg)に対して810kgとヘビーであった。しかし空力に優れたボディのおかげでトップスピードがビートルの110km/hに対して115km/hであった。また当時の価格はビートルの4600マルク(カブリオレ5990マルク)に対して7500マルクもした。
初期型のカルマンギアは1959年で姿を消し、大幅なマイナーチェンジにより特徴のあるフロントフェンダー形状やベントグリルやテールランプののデザインが変更され、1960年に第二期に突入するのであった。
安全機銃により第二期に突入

■1960年代を迎えるにあたり、ボディも大幅にマイナーチェンジされることになる。
特徴的なのはヘッドライトの位置が5cmほど上にあがり、従来の二本ヒゲのフロントグリルがクロームタイプの3本ラインに変更された。またテールランプが角型から三日月型に変更された。さらに右ハンドルも追加されクーペが「No.144」、カブリオレが「No.142」となる。この後1969年まで細かなマイナーチェンジを受けながらカルマンギアは生き延びていったのである。
しかし1962年に登場したType3カルマンは1969年をもって生産終了となる。
写真は「三日月テール」と呼ばれる中期型
さらなる安全基準に対応

■アメリカの厳しい安全基準に対応するために外見のてこ入れがなされる。フロントウィンカーやテールランプやバンパーが大型化され、エンジンも新世代ビートルの1302Sに準じた1600ccが搭載されている。これ以降も細かなマイナーチェンジが行われ1974年に生産中止される。
生産中止後も南アフリカでも生産される。またブラジル製のカルマンギアも存在した。
ドイツ生産のType1カルマンギアはクーペが363,401台、カブリオレが80,899台生産された。19年もの長きに渡り人々に愛されたカルマンギアであった。
写真は最終型のビッグテールと鉄道バンパーを装備
変り種カルマンギア

■ ブラジルで生産されたカルマンギア。
ドイツ製カルマンギアとは全然イメージが違う。